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2015/03/22

アメリカン・スナイパー

As クリント・イーストウッド監督にとっての映画とは、アートではなく主義主張の表現の場でもなく、基本的にはエンターテインメントなのだと思います。

だからこの映画の戦争シーンも、アクション映画としてとてもよくできています。スナイパー対スナイパーという構図を中心に、敵をなぎ倒す爽快感、敵に包囲される緊迫感、それらがテンポよく表現されています。そしてこの出来の良いアクション部分が、この映画のもう半身である家族ドラマ部分と足を引っ張りあうこととなってしまうのです。

この家族ドラマは、主人公である狙撃兵カイルの苦悩ではなく、彼の妻の苦悩を中心に描かれているのが特徴です。カイルの思考は常に一貫しており、自分が怪物と化してゆく自覚もそれほどありません。観客が寄り添う真の主人公は、カイルの妻だといえるかもしれません。

そしてこの家族ドラマ部分と、痛快なアクション部分が全く遊離しているのです。それはそうでしょう。このアクション部分は完全にカイルの視点で描かれています。常に銃と共に生き、強いアメリカを信奉し、国を守るために『野蛮人』たちを倒しにイラクにやってきたカイルの視点です。もし映画としての一貫性を求めるならば、観客にはこのアクション部分で違和感や嫌悪感を感じさせるべきなのでしょう。家族ドラマ部分で妻の視点に立っていた観客ならば、そのような反応が当然でしょう。しかし観客は楽しんでしまうのです。この出来の良いアクション部分に。

この映画が『アメリカ礼賛』『反イスラム』と誤解を受けるのも、ここが原因でしょう。
この映画の本当の視点は妻の視点。銃と共に生きる人々への、父から教わった射撃でたくさんの人を殺し、また自分も愛する子供に射撃を教える人々への違和感です。この映画のエンディングになぜ一切の音楽がないのか。それはこの映画が彼らの死を称えるためのものではなく、彼らの死を悼むものだからではないでしょうか。

部分部分はどこも悪いところはないのだけれど、組み合わさってみるとその仕上がりは決してよくない。つくづく映画というのは難しく、そしておもしろいものです。

16/2015

#685

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