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2014/12/18

フューリー

Fury 予告編を観て感じた違和感。

徹底的にリアルに描かれた戦争の非情さと、たった一台の戦車でドイツの大軍に立ち向かうというヒーロー映画の様な物語。この相容れない二つの要素をどのように映画の中に両立させようというのだろうか。結論から言うと、その相容れなさは解決されないまま放置され、映画の完成度を下げることになったと思います。それは主演であるブラッド・ピットの性格描写の破たんというかたちで、象徴的に表れています。

生き残ることこそが正義であり、そのためにはどんな手段も利用する。
この映画の序盤で描写されるピットの性格はこのようなものでしょう。新入りに度胸をつけさせるためには、無抵抗のドイツ兵さえも平気で射殺させます。過酷な戦場を幾度も生き延びてきた彼の人物描写は、徹底して合理的で冷酷なものでした。

ところが終盤、絶望的なシチュエーションで彼は逃げることより留まって戦うことを選びます。何故でしょう。何故急にヒロイズムに目覚めたのでしょうか。もちろん人の性格は多面的なものです。利己的な人の中にも高潔な部分があってもおかしくありません。しかしこの映画では、結局この溝を埋めきれていないのです。そこまで描かれてきた彼であれば、留まるわけがないのです。別にそこを落としたからといって連合軍が敗退するような重要な戦闘ではありません。単にベルリン陥落が数日遅れる程度でしょう。

占領した街でドイツ人女性たちと過ごす一夜のシーンがありました。
本来はあそこがピットの多面性を描写するための重要なシーンとして機能するはずだったのかもしれません。しかしご覧になればわかるとおもいますが、結局あそこはよくわからない妙なエピソードとなってしまっており、とてもそのような役目を果たすことはできませんでした。

部分部分を取ってみると申し分のない出来のよさです。しかし全体としてみるとなんともちぐはぐです。「二兎を追う者は一兎をも得ず」 どちらかにしておけばよかったに…

74/2014

#662

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» 『フューリー』 悔しいほどの3つのこと [映画のブログ]
 悔しいなぁ。  『フューリー』を上映している135分間、私は歯軋りしたいくらいだった。  これは日本じゃ撮れない映画だ。  デヴィッド・エアー監督・脚本の『フューリー』は、ナチス・ドイツ崩壊目前の1945年4月における、戦車フューリー(憤激)号に乗り込む5人の男たちの物語である。敵地ドイツの奥深く進撃する彼らは、友軍を次々に失い孤立していく。その戦いの酷さをこれでもかと描くのが本...... [続きを読む]

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