わが母の記
『純文学』というものが何なのか、今までずっとイメージできなかった。
原作者の自伝的小説の映画化である本作の主人公は、原作者である純文学作家の投影なのだろう。そう思いながらこの映画を観ていると、そもそも純文学とそれに対する大衆小説の差異とは、芸術性や娯楽性といった表層的な部分にあるのではないように思えてきた。
私にとっての小説家とは、類い希な想像力で世界を創り上げ、それを優れた文章力で組み上げていく存在だ。でも、この映画の主人公である小説家は違う。彼は自分が見たもの、自分が感じたことしか書くことができない。
作者の中で小説が生まれていく課程において、『想像』というフィルターを通す大衆小説に対して、『経験』というフィルターを通す純文学。このフィルターの違いこそが、純文学と大衆文学の決定的な差異なのではないだろうか。
そして『想像』には『経験』が影響するけれども、『経験』には『想像』は影響しない。
その結果、当然のことながら純文学は、自己中心的で自己愛的で、そして不寛容になる。自分が正しく、自分が全て。その小説は結局の所、作者の分身なのだ。
だからこの映画も、良くも悪くも純文学的である。そしてその感覚の狭さ、想像力の欠如ゆえに、映画としての感動がスポイルされているのも事実だと思う。
33/2012
#429
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