告白
毒をもって、毒を制す
映画とは一般に、俳優たちがシナリオに沿って演技をおこなうことで物語を表現し、それを映像としてフィルムに収めたものである。そう考えると、小説『告白』の映画化である映画『告白』は「映画ではない」といえるかもしれない。
もちろん本作においても、たくさんの俳優がセリフを話し、演技をしている。でもこの映画で物語を進めているのは、それら『映っているのも』ではなく、告白=モノローグという『映っていないもの』なのだ。演技などの映像は『挿絵』、そこで話されているセリフは『SE』。本来映画の主要構成物であるはずのものが脇役にまわって、主役となった『モノローグ』という音声を盛り立てている。
つまり映画『告白』の正体は、小説『告白』の朗読にイメージ映像とサウンドを被せたものなのである。
一人称で構成された小説を、一人称のまま音声で表現する。
そこに被さる、エフェクトで加工された歪んだ映像と、サイケデリックでヒステリックな音楽。
そう、全ては『毒』のため。小説の一人称から染み出す『毒』を、一人称の表現に不向きな映画という媒体に移すための手法なのだ。
物語を再現するだけではだめだったろう。
大事なのは『毒』を再現すること。この『毒』こそが、『告白』の魅力なのだから。
そしてこの手法は成功だったと思う。
映画を捨てることで、そこには『映画化』された、したたるような『毒』があったから。
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