ゴールデンスランバー
で、お前やったのか?
小説を読むとき、人は頭の中に映像を思い浮かべる。人は小説を読みながら、頭の中で映画を創っているともいえる。そして当然同じものを読んでも、出来上がる映像は千差万別だ。その人の生い立ちや、現在置かれている環境。『山』と書いてあっても、思い浮かべる『山』は全く違ったものになるのがあたりまえ。それでも小説家の描写力によって、なんとなく複数の読者がどことなく似通った脳内映像を創り上げることになる。
小説の映画化は、この、読者の脳内映像との戦いでもある。
読者達のの脳内映像を考慮するのか。無視するのか。監督には自分の脳内映像以外観るすべがないだけに、それはとても難しいことなのだろう。
しかしこの映画の場合、たぶんその映像に違和感を抱く読者は少ないだろう。多くの読者の脳内映像の、その最大公約数的なイメージとなっているのではないだろうか。それは監督の読解力がとても優れているせいなのか、監督の脳内映像がたまたま平均的なものなのか。それとも多くのスタッフが小説を読み、ディスカッションでイメージをまとめているのか。とにかく小説とのシンクロ率はとても高い。
それゆえ、映画としての意外性はない。小説の出来を上回ることも出来ない。たとえば100点の小説を題材にして、120点の映画は創れない。みんなの脳内映像を上回るような、驚きもない。そして逆に、60点や50点になってしまうこともない。読者の期待を、少なくても裏切ることはない。
そう、冒険することがない変わりに、決して裏切らない優等生。映像だけでなく、シナリオもそうだ。時間の関係で当然切らなければいけない要素もある。しかしそれは最低限で、切った後の修復も、小説の流れを決して変えてしまわない巧みなものだ。
小説の再現としては、たぶんこれ以上のものは望めない。
野心はないけれど、まじめで裏切らない。面白味や意外性よりも完成度。
ミュージシャンではなくてプレイヤー。
でも、それでもいいのかもしれない。
すくなくても、とても小説が愛されているのがよくわかる。
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