ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
表現者としての成熟
何者も入り込めないほど硬質で、触れただけで傷つくほど繊細で。
包み込むようなやさしさと、目を背けたくなるほどの残虐さ。
新劇場版はこの第2作目から、大きくテレビ版の流れから遊離し始めているようだけれど、表層は変わっていても、深層に流れる本質は何も変わっていない。注目すべき変化は、物語としての現れ方ではなく、その『語り口』ではないだろうか。
人は生きている。歳を重ねれば、成熟もするし老化もする。
前は語ることだけが目的で、それを理解してもらうことは二の次だった。暴走するような勢いで、周りを全部ぶち壊して、出来上がった廃墟に自分のモニュメントを建てていた。
でも今回は、伝えるようとする想いがそこにある。ぶつかる相手を壊してしまうのではなく、ぶつけながらも受け止めさせようとしている。
それが伝えると言うことの本質だから。相手が壊れてしまっては、決して何も伝わらない。伝わらなければ、表現する意味がない。
だから次の最終作の結末は大きく変わるはず。いったん壊してやり直す、そんなやり方ではなくて。たとえぶつかって痛みがあったとしても、それに耐えながら『共存』して何かを伝えあう。
「新劇場版のタイトルから『新世紀』が外れたのは、今が『新世紀』になったから」
これは嘘ですよね。
本当は今回の物語が『Neon Genesis』ではないからなのではないですか?
#225
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