ぼくらの時代/栗本 薫
1953-2009
『モラトリアム』っていう言葉がありますよね。おとなになるまでの猶予期間。往々にして、『甘え』と同じ意味で使われているあれです。自分の場所があって、しっかりした生き方ができる立派な『おとな』。そんな『おとな』になりきれない、自分が何者かもわからなくて、目先のものに熱中するしかなくて、なにも持っていない『ガキ』。
昔この本を読んだときは、いつか自分も『おとな』になって『確か』になって、そのかわりに何かが消え去っていくんだって、そんな風に、ちょっと不安に、ちょっと悲しく感じました。でもそれからたくさんの時間が経って、いまでは、本作で言えばもう原田さんの歳に近くなっているのだけれど、果たして自分は『ガキ』から抜け出して、『確か』な『おとな』になったのかな、って思うんです。
確かに仕事もあるし、住む家もある。どこをどう見たって、スペック的には『おとな』ですよ。でもびっくりするくらい、自分の中に『確か』なものって、ないんですよね。器は古くなっていくけれど、中身は熟成していかない。
どうなんでしょうね、人にとって『確か』なことって。人にとって確かなことって、生まれる前には何もなかったことと、最後はもとの何もなかった状態に戻ること。それ以外の『確か』なんて、結局はただの思いこみ。『おとな』なんて、ただ『おとな』になったって思いこんでいるだけ。本当は、人の人生そのものが猶予期間なのではないですか。
でも、ぼくはそれでもいいと思うんです。そのかわりにいつまでも『ガキ』の心が残っているならば、無くさなくても済むんですから。いつまでも昔のままの感覚を、できるだけ取っておけるのですから。どうでもいいことに熱中できる純粋さや一途さを、少しでも取っておければ、昔感じた感動を、いまでも同じように感じられるんですから。たとえ髪が短くなったって。
だからみんなそうなんですよね。グインだってイシュトヴァーンだってナリスだって。みんな王になれるくらい優れた英雄達なのに、みんなどことなく不確かで揺らいでいて、そして純粋で一途で。みんな『おとな』になれていない。でも彼らに自己欺瞞は似合わないですもの。
そして、モラトリアムの女王にも、ついに退位の時が来たのですね。たった一つの『確か』な真実と、向き合うときが来たのですね。
僕は好きでしたよ。二つの世界のはざまにある女王の版図。昼でも夜でもない黄昏の国。かたぎの人たちが起き出す前の誰もいない朝の街を、いつまでこうしていられるのかと、漠然と思いながら歩く、本作のラスト。
ありがとうございました。
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