ザ・シューター/極大射程
スワガーが泣いている
狙撃手の物語は地味である。丹念に試射を繰り返し、銃を調整する。じっと待ち伏せし、一瞬のチャンスをうかがう。動きが少ない。そんな狙撃手の物語を見事に描いたのが小説「極大射程」だった。
小説は動きの少なさを補うべく、人物描写に厚みを持たせた。冷静で、周到で、我慢強く、頑固。人並み外れた集中力とそれを発揮するための体力、そして節制。俗世間の常識とはかけ離れた狙撃手の美学。そんな狙撃手たちの運命が交錯する。小説は活劇ではなく、人間ドラマとして魅力を強く放っていた。文字通り「狙撃手たちの物語」だった。
そしてその映画化である本作。監督や脚本家は小説を読んだのであろうか。小説の魅力の源泉である「狙撃手」が全然描けていないのはなぜだろう。あの冷静沈着なスワガーが罠にはまってしまった原因となる「敵側の狙撃手」の存在。それなくして「愛国心」のひとことで罠にはまった映画版スワガーはただのまぬけである。さらにその「敵側の狙撃手」の代わりに映画で狙撃を行うのがなんと遠隔操作の無人ライフル。どういう感性をしているのだろう。
FBIのメンフィス。彼がスワガーを信頼して味方になったのは、彼もまた「狙撃手」だったからだ。その人物設定なくして描かれた映画版メンフィスはただのバカである。物語の骨格に配置されている狙撃手たちをなぜこうも無視できるのだろう。ライバルも仲間もいないのではどうにもならない。M16を乱射し、リモート爆弾やナパームで敵をなぎ倒すスワガー。あのような戦い方はスワガーの美学ではあり得ないだろう。スコープを覗いてライフルを撃てば狙撃手なのか。
ではそれらを犠牲にして、映画は独自の魅力を生み出しているのだろうか。そうは思えない。小説の重要シーンや動きのあるシーン。それらを機械的に順番に並べている。ただしドラマを構成する重要な要素を省いているため、人間的なつながりが描けない。ゆえにつぎはぎだらけの映画が出来上がった。
小説では狙撃手スワガーが最後に「撃たないこと」で敵を倒した、印象的な法廷のシーン。映画版でもご丁寧に司法省内で再現される。でも映画版ではスワガーの親友が省かれている。拘束されていたスワガーがなぜ実弾を持っていたのか。こんないい加減なシーンばかりの映画になってしまった。
原作の良さを感じ取るだけの読解力が無いのか。それともそんなことお構いなしで小説のネームバリューを利用しただけの「お仕事映画」なのか。どちらにしても情けない話だ。
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コメント
お邪魔します~♪
starlessに影響され、原作読んでみました~♪
確かに、この原作は凄い・・・この原作をもってしたら、もっと
凄い映画が出来るのでは!?って思ってします。
ご指摘のとおり、メンフィスの掘り下げ方が浅すぎですよね?
せめて彼もスナイパーで、過去に失敗した経験がある・・・って
くらい映画いて欲しかった、全然新人じゃないし(・・;)
クライマックスの裁判シーンも、完全にカットっすか!?
かなり不満です!!!
投稿: はっち | 2007/07/29 07:02
はっちさん、コメントありがとうございます。
前々から小説の存在は知っていたのですがなかなか読む機会が無く、映画化を知って急いで読みました。
「見てから読む」ではなくてよかったです(笑)。
小説の通りにしろとはいいませんけれど、小説のいいところを削ったかわりに付け加えられている良さがないところが、いけませんねぇ。
投稿: starless | 2007/07/31 19:57