ロッキー・ザ・ファイナル
戦うのがボクサー
本作の予告編を見ると強烈なデジャヴに襲われる。それはまるで「ロッキー」そのもの。シリーズ続編とはいいながらも、1作目のリメイクのような印象を受ける。実際、物語もほぼ1作目をなぞった展開で、エンディングもほぼ同じ。しかし本作は単なる焼き直しではない。主人公が30歳年を取ったこと、これが最大の相違点である。
現在のロッキーは決して落ちぶれてしまっているわけではない。妻にこそ先立たれたものの、息子は立派に成人しており、小さいながらもレストランのオーナーとして安定した生活を送っている。今でも街を歩けばサインや記念撮影を求められることもある。ボクサーの晩年としては悪くない状況だろう。
しかしエイドリアンを失った喪失感は大きい。「過去に生きるのはやめろ」義兄のポーリーに励まされながらも、ロッキーの時は止まっていた。
30年前のロッキーは、自分がただのゴロツキではないことを証明するために戦った。自分の進んでいくべき場所をしっかり見据えて、それを目標にがむしゃらに進んだ。しかし、今のロッキーには進んでいくべき場所は見えない。進めば進むほど大切なものを失っていく、いわば人生の「喪失局面」においては、前は決して進んでいきたい場所では無いのだ。
それでもロッキーはまたリングに立った。進むことにより何かを得るためではなく、誰かに何かを証明するためでもなく。自分の好きなように進むこと、ただそれだけのためにまた戦った。この価値観の転換こそが本作のメインテーマだろう。
30年前のロッキーには、ダメ俳優だったスタローンが自分にも「できる」ことを証明しようとする姿が強烈に反映されていた。本作のロッキーも、同様に現在のスタローンの姿が色濃く投影されているる。往年のスーパースターであるスタローン。でも最近はヒット作もなく、落ちぶれたわけではないけれど世間では「終わった」スターとして完全に位置づけられている。彼がロッキーの続編を撮ると発表したとき、世間は笑った「あの歳ではもう無理だろう」。
でもスタローンは本作を創った。それはまだヒット作が創れることを証明するためではない。「もう一度大好きなロッキーを創りたい。俺が一番やりたいのはこれなんだ」 本作からはそんな彼の想いが強く伝わってくる。そして「ロッキー」同様に、スタローンの想いが映画に大きな力を与えている。
また本作で見事なのは「敵役」であるチャンピオンの造形である。チャンピオンでありながらも自分の価値を周囲に認められず、つねに「証明」することで頭がいっぱい。それはまさしく30年前のロッキーそのもの。そんな「敵」を見るロッキーの目はやさしい。結果が欲しいチャンピオンと過程そのものに価値を見いだすロッキー。二人の利害は対立しないからだ。「どちらにも勝って欲しい」 そう思ったのは私だけではないだろう。
ロッキーの行動の動機づけについては、決してはっきりと描写されているわけではない。そのあたりがピンとこない人も少なくはないでしょう。でもそんな人にはぜひ30年後にまた本作を見て欲しいな。喪失局面に入ったとき、目標もないのに進んでいくことの尊さ。スタローンの勇気と熱い想いがきっと伝わってくると思います。
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