ステイ
ずっとここにいる
多用されるフラッシュバックと尋常ではない映像表現。「どれが現実で、どれが幻想か」 まるで挑戦状のように、真っ向からそんな問いかけを見る者にたたきつけてくる映画です。
映像は奇妙ながらも美しく、物語も異様ながら難解ではなく、なかなか良い映画だと思いますが、ひとつだけ気になってしまったことがあります。それはエンディングについてです。
この映画は、いわゆる「結末を語らないでください系」の作品です。そのエンディングは意表をつきながらも決して意味不明だったり説明不足だったりするものではありませんでしたが、一方でなんともいえない「釈然としなさ」を強く感じさせるものでした。そしてその原因はどうやら「視点」にあるようです。
群像劇のような例外もありますが、普通映画には「主人公」が設定されており、感情移入の有無はともあれ、観客はその「主人公」の視点で映画を見ていくことになります。本作の主な登場人物はサム、ヘンリー、ライラの3名です。そして「サムがヘンリーの謎を解く」という物語からもわかるように、サムが「主人公」として設定されていると考えて間違いないでしょう。
つまり観客は「サムの視点」で「サムとして」映画を見ていくわけですが、本作のエンディングではサムが「見る側」から「見られる側」に移し替えられてしまうのです。
見ていたものが「現実か幻想か」というひねりに加えて、最後に「視点」までも逆方向にひねってしまうことで、エンディングの意外性をアップさせているわけですが、個人的にはここが「釈然としなさ」の元凶だと思います。
「今まで自分が現実だと思っていたものが幻想だった」という観客の感覚の否定は上手くやればかなり効果的なわけですが、「今までの自分そのものが存在しなかったんだ」という観客の存在の否定は、「物語」という作り物の外側にある「映画」という本当の作り物の存在を強く観客に意識させてしまいます。
さらには一番感情的に盛り上がるシーンで無理矢理「視点」を変更することで、それまでの感情の連続性が断ち切られてしまうというデメリットもあります。
でも、もしこの作品が「今までにないパターンのオチにしよう」という意図のもとに作られたのであるならば、このようなちぐはぐなエンディングになってしまったのも無理もないかも知れません。流れの良いパターンはすでに使われてしまっていることが多いからです。
物語をヘンリーの視点から描き、サムはあくまでも「謎の干渉者」として描く。
物語をサムの視点から描き、ヘンリーをサムの「忘れたい罪の意識」の実体化したものとして描き最後に統合する。
これならば視点も感情の流れも断ち切られることは無いわけですが、前者はベトナム帰還兵の物語として、後者は機械工の物語としてすでに使われているパターンになってしまいます。人の意表をつくのは難しいものですね。
それでも「変わった映画」を見たい方には、十分おすすめできる作品でしょう。
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