宇多田ヒカル "UTADA UNITED 2006"
2006.08.18 (Fri) SAITAMA SUPER ARENA
よく「ライヴ・ミュージシャン」と「レコーディング・ミュージシャン」などというが、宇多田ヒカルは間違いなく「レコーディング・ミュージシャン」だろう。
レコードにおいてヴォーカルが多重録音されているのは当たり前のことだが、彼女の曲は通常の「リード+ハーモニー」といった構成で録音されてはいない。複数のリードヴォーカルが絡み合うその旋律はレコード通りに一人で歌うことは不可能、つまりライヴ演奏することは考慮されていない曲作りがなされているわけである。
それをライヴで再現するためには、複数のリード・ヴォーカリストが必要となるが、彼女はバック・ヴォーカルを引き連れることはしない。自ら織り上げたヴォーカル・パートの一部を他人の声に任せるのを嫌ったのかどうか、そのあたりはわからないが、彼女の選択は自らが録音したテープ(今は実際にはテープではないと思いますが)と共演することだった。
これは簡単なようで簡単ではない。カラオケのようにテープに合わせて歌うだけならともかく、彼女の6人のバックバンドもテープに合わせて演奏しなければならないからだ。彼女も含めた7人は両耳にイヤホンを装着し、そこからガイドリズムの様なものをモニターしながらテープとずれないように演奏しなければならない。
将来のライヴでの再現を一切考慮することなく、緻密なヴォーカル・パートを録音してしまう彼女の完全主義者ぶりは、まさに「レコーディング・ミュージシャン」といえるだろう。そしてそれはライヴがダメだということではない。自らが作り上げた楽曲をライヴで再現するのに、とても苦労するということを意味しているのだ。
そしてこの夜、彼女は苦しんでいた。
ヴォーカリストは「喉」という生身の楽器を駆使する仕事ゆえにどうしても出来不出来がある。プロであるからにはコンディション維持は自己責任であり、いいわけは出来ない。プロのヴォーカリストにとっては、調子の悪いときのしのぎ方こそ腕の見せ所だろう。彼女は当然ライヴで叩き上げてきたミュージシャンではなく、その辺りの経験も不足しているかも知れない。そしてなによりも、彼女の完全主義が自らを苦しめることになる。
どんな大物ヴォーカリストもライヴにおいては「フェイク(ごまかし)」を使ってくる。そして彼女の場合は、自らのテープと共演する関係でフェイクしづらいという問題が生じる。一人でリードパートを歌う通常の場合であれば、フェイクもそれほど気にならないが、彼女のように複数のリードパートが組み合わされている楽曲の場合にはフェイクの入れどころが難しい。なによりも自らのフェイクでせっかくテープを使ってまで再現したヴォーカル・パートをぶち壊すのは、彼女自身が一番不本意だろう。
途中の処置(?)のあとは声こそ出るようになったが、彼女の最大の魅力である声のトーンと繊細なヴォーカルコントロールは、残念ながら最後まで失われたままだった。
しかしライヴそのものは十分楽しめるものだった。バンドの演奏もライヴならではのダイナミズムを感じさせる素晴らしいものだったし、半透明の可動式テレビスクリーン(?)を駆使したステージプロダクションも見応えがあった。意外なオープニングからマドンナの新譜を思わせる冒頭のノンストップミックス風の展開など、選曲・曲順も個人的には満足行くものだった。
また今回は「Utada」名義の楽曲が披露されたことも大きな見所。「Exodus」で一番好きな「クレムリン・ダスク」が聴けてよかった。この夜の彼女にはちょっと酷な選曲だったかも知れないけれど。
私はソロ・ヴォーカリストのライヴを観に行ったのは今回が初めて。ロック・バンドならば、たとえ不調のメンバーがいても仲間が支えてくれる。ヴォーカリストの声が出なくても、ギタリストが素晴らしいソロを決めて盛り上げてくれる。観客だってヴォーカリストだけを見に来ているわけではない。
しかしソロ・ヴォーカリストは違う。どんなにバンドが素晴らしい演奏で盛り立てても、全ての観客が「ヴォーカリストだけを見に来ている」という事実の前では無力だ。たとえ音が外れようが声が出なかろうが、全責任を背負ってステージの一番前に立ち続け、大観衆と対峙しなければならない。
そんな彼女の小柄な姿をみて、ソロ・ヴォーカリストの厳しさ、残酷さを感じた夜だった。
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コメント
TBしました。
ブログ検索でたどり着きましたが、貴殿の書き込みはなるほどと感心いたしました。宇多田ヒカルのステージについては、賛否両論飛び交っているようですね。
私も彼女がかわいそうに思えたひとりです。
投稿: ちえたろう | 2006/08/19 13:57
>ちえたろうさん
コメントありがとうございます。
彼女のツアー日程は、一般的にはそれほど過密なスケジュールというほどではないので、もともと「ガラスの喉」なのかもしれませんね。
ファンとしては彼女がかわいそうに思えるわけですが、実際は高いチケットを買って見に来ている観客の方がかわいそうなのです。
そしてそんな観客の落胆を一番肌身に感じるのも彼女自身なんですよね。
こんな夜を積み重ねていくことで、ミュージシャンは成長していくのでしょう。夢を売るというのはつらい商売ですね。
投稿: starless | 2006/08/19 14:19
本当にそうです。
私は今回初めて生宇多田の声を聞きに名古屋に行きました。
観に行って思ったのは、本気でやってる歌手って大変なんだってことです。
自分だけがノリノリで歌っていても、観客が乗ってこなかったら意味がないし、あれだけ広い空間全てを自分一人でものにしなければいけない。
だからといって、歌は現実のものだから、声そのものだから、良くない日もあると思います。
そんな中で完璧なものをつくろとしたら相当なエネルギーがいるんだって感じました。
はがゆいと言うか、あーもっと宇多田にあった表現の仕方があるんじゃないのかなと思いました。
宇多田をみてるといつも年齢を忘れてしまいますが、まだ23歳なんですよね。
ついつい彼女にレベルの高いものを求めてしまいます。それは宇多田だからこそだと思います。
歌手は沢山います。
歌の上手な歌手も沢山います。
でも、自分自身全てのエネルギーを毎回振り絞って何かを伝えようとする歌手は数少ないと思います。
投稿: ぺー | 2006/08/19 16:32
>ぺーさん
コメントありがとうございます。
>もっと宇多田にあった表現の仕方
いくら歌っても衰えない喉、スタミナや持久力、どうしてもライヴはミュージシャンの肉体面での力が強調されがちです。
しかし、それらを備えていない優れたミュージシャンも沢山いますし、レコードを再現できないことは(そのジャンルにも依りますが)ミュージシャンの価値を下げることに直結するわけでもないでしょう。
なにもライヴだけがミュージシャンとしての表現の場ではないので、極端な話、無理にライヴをやる必要もないんですよね。
やるにしても、無理のない程度にステージ数を減らすなり、もっと自分にあった活動の仕方を考えるのも必要かも知れません。
彼女くらいの大物になれば、CDのプロモーションのためのライヴも必要ないでしょうし、レコード会社も活動方針に口出しはできないでしょう。
まぁ、ファンとしては観る機会が減るのはさみしいことですがね。
投稿: starless | 2006/08/19 22:16
Utada UnitedのブログのTBから飛んできました。
私もさいたま2日目に行き、ブログに書き込みしているものです。
貴方の記事の奥深さに、私もうなずくものがありました。
ライブが大好きで、今まであらゆる歌手のライブに参加してきましたが、宇多田ヒカルのさいたま2日目のライブは、なかでもシンガーのコンディションが一番悪いライブだったことは否めないなぁと思いました。
それも自覚した本人が一番苦しんでいると察します。夢を売る仕事って、本当に大変ですね。。。。
でも、やっぱり生の彼女に会いたいので、これからも宇多田のライブがあると行きたいなぁと思います。
投稿: ちえ | 2006/08/20 00:59
はじめまして。
書き込み、興味深く拝見しました。
今回のツアーは、代々木に参加する予定ですが、彼女の体調が気懸かりです。
他のサイトによると、この日は、のどの調子以外にも、「途中の処置」と言われる2分間の空白のとき、イヤホンの具合が悪くて、交換したのではないかという書き込みがありました。曲の途中で、ステージ下のスタッフに、耳を指差して、2回、×サインを送っていたそうです。
「実際は高いチケットを買って見に来ている観客の方がかわいそうなのです。」と言う意見もありますが、このような場合、「チケット代に見合うステージをみせられない」としてライヴを中止して払い戻ししたほうがよいのか、「ステージを投げ出さず、最善を尽くして」最後まで務め上げたほうがよいのか。
プロのシンガーとしては、どちらなんでなんでしょう。そう言えば、杉山清貴、玉置浩二、松山千春さんとかが途中で「声が出ない」として打ち切ったようですね。どちらにしても、賛否両論なんでしょうね。
投稿: さとう | 2006/08/20 01:37
ネットで素晴らしいものだったし残酷と悪いときライヴとか見に来ている
通常とかをリードヴォーカルしなかったの?
投稿: BlogPetのちゃん吉 | 2006/08/20 11:35
>ちえさん
コメントありがとうございます。
ファンはアーティストにお金を払っているだけに、求めるものも多いわけですが、それだけではなくて、長い目で「つき合っていく」ような視点があると、音楽がより楽しめるようになるんですよね。
好きなアーティストがパーフェクトであればファンとしてはうれしい限りですが、相手も人間、弱点もあります。
弱点を露呈してしまうライヴを観るのも、弱点を克服するために試行錯誤するライヴを観るのも、ファンには何らかの意味はあると思います。
どんなに好きなアーティストでも、同時代に存在しなければ(もう引退したり亡くなっていたら)絶対観に行くことは出来ないのですから、偶然の出会いの機会に感謝して、起こったことを受け入れるのも大切かも知れませんね。
投稿: starless | 2006/08/20 12:15
>さとうさん
コメントありがとうございます。
>イヤホン
これは興味深い話ですね。
通常ステージの上では、モニタースピーカーからの音を聴きながら演奏したり歌ったりしますが、彼女の場合はモニタースピーカーは置かれておらず、全てを耳のイヤホンから聴き取っているようです。
それがダメになってしまえば、たぶんドラムの音以外は一切聞こえなくなってしまい(最悪の場合自分の声も)、絶対音感でもなければ怖くて声を出せなくなるでしょう。
>払い戻し
現実的には公演自体が中止にでもならないと払い戻しは無理でしょうね。
ほとんどの場合は最後までがんばるしかないのでしょう。外国のロックバンドなどでは、モニターの調子が悪いやら本人の調子が悪いやらで、数十分で帰ってしまうような「伝説のライヴ」もあったりするようですが、日本人でそれをやると後が怖いかもしれません。
投稿: starless | 2006/08/20 12:42
すごい正当な意見ですよね。
共感!と思ったのでコメントさせて頂きます。
僕は大阪の初日にも行ったんですがその時は本当に調子が良かったです。
正直「ヒカルの5」の時も高音出てないんじゃないかな?って思ってたんですよ。
不安を抱きつつ7.25の大阪城ホールに行ったらCD以上のクオリティーを聞けたと思いました。
17日、18日と訪れた人は期待外れだったかも知れません。万全の状態を保てなかったのもhikkiのせいかもしれませんが彼女は本当に上手いシンガーだからまたツアーがあれば期待はずれだった人も参加して欲しいと思います。
投稿: りぃや | 2006/08/20 13:14
>りぃやさん
コメントありがとうございます。
DVD「ヒカルの5」を観てもあまりライヴは得意そうではなかったので、ある程度覚悟はしていました。
期待はずれというよりも、彼女の苦しみや無念さの方を強く感じました。
もっと楽に歌えればいいのでしょうけれども、あれだけのビジネスになると背負っているものが大きすぎますよね。
投稿: starless | 2006/08/20 21:56
こんばんわ。初めまして。TBさせて頂きました。
ワタシ、大変傲慢ですが、この記事を読んでようやく宇多田ヒカルを「許せる」気分になれました。
お金返せ、という気持ちの方が大きくて、宇多田ヒカル凄い嫌いになりそうで。
でも、彼女以外のところで動いてるものがあまり大きすぎるんですよね。
ワタシは彼女と同い年なんですが、ヒカルの5の時は同い年でコレだけの人を総立ちに出来るってのは凄いなと思いましたし、
実際ものすごく上手いのはあの状態でも伝わってくるんですがねえ。
なので、こんな状態になってしまったことが、今となってはなんだか残念だという気持ちがいっぱいです。
彼女側に立って応援してあげたい、擁護してあげたいという気持ちも大きいし、かといってやりくりしてきた私らはどうなる?とも思うし。
見る方も演る方もやるかたない、そんな気持ちにさせるライブになってしまうとは、やっぱり残念だなと思いました。。
投稿: サヤカ | 2006/08/21 01:39
>サヤカさん
コメントありがとうございます。
音楽って、やはりアーティストの中身を映す鏡ですよね。
私が彼女の音楽にひかれる理由は、彼女の声のトーンやそのメロディーに感じられる「透明感」と、それが連想させる「もろさ」や「はかなさ」なんですよね。
彼女のMCなどを観ていると、なんとなく口べたで、どちらかというと「歌」以外ではあまり人に何かを伝えたりするのは苦手なのかなという印象があります。
芸能界でやっていくために必要と思われるしぶとさ、図太さみたいなものが感じられないのです。
加えて今回の様子を見れば、喉も体力もミュージシャンとしては恵まれてはいないようです。
そんな彼女の、いわば資質に欠ける部分が音楽に現れているのだとしたら。
もし彼女が精神的にも強さを身につけ、トレーニングなどで肉体的な問題もクリアしたなら、私の好きな今の彼女の音楽は失われてしまうかも知れません。
そう考えると音楽だけのためであれば、私にとっては今のままの彼女でいてくれる方がいいのかなぁ。たとえライヴが期待できなくても。
投稿: starless | 2006/08/21 22:46
こんばんわ。はじめまして。
ブログ検索にてたどりつき
他の方へのコメントも感心して読ませていただきました。
私も当日が宇多田ライブ初参戦だったんで
ハードル上げていたのであの声には大人気なく「イラっ!」としてしまいました。
「Be My Last」のチェロVer.は以前、歌番組で観て「おおっ!!]と生でも大丈夫'これならライブも'と期待していたので・・・
感情的にならず冷静なコメントを拝見していちいち共感してしまいました。
又、私も佐藤様が言われているのとまったく同じ
>プロとしては、「チケット代に見合うステージをみせられない」としてライヴを中止して払い戻ししたほうがよいのか、「ステージを投げ出さず、最善を尽くして」最後まで務め上げたほうがよいのか。
という疑問がわきました。
あれで本人が「今日、ちょっと声でなくてゴメンねー」と言うことは出来なかったのだろうか?それを言ったらプロ失格!?そんな事はないだろうに
それを言えればお互いに楽になれたのに
あの会場にいたほとんどの人がずーっと「どうしたんだ?どうしたんだ?」と気が気じゃなかったはずだから・・・
投稿: コヨーテ | 2006/08/22 00:12
>コヨーテさん
コメントありがとうございます。
>それを言ったらプロ失格!?
「声」の場合は本人が言わなくても客には伝わりますからね。
今回の場合は、ファンの皆さんの感じからして言ってしまった方が本人は楽だったでしょうね。
それをそうしなかったのは、本人の性格か。
それともファンが彼女に対して感じている距離感よりも、彼女がファンに対して感じている距離感がやや遠いのか。
彼女からはファンとの親近感、悪く言えばなれ合いっぽい感じがあまり感じられないような気もしました。
「孤高」とでもいった印象でしょうか。
投稿: starless | 2006/08/22 20:40