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2005/10/10

アマデウス

amad モーツァルトの死をめぐる謎を描き、1984年のアカデミー賞で8部門を受賞した作品。

秀才は努力をすればいつも95点をとり、運がいいときは100点をとる。秀才にとっても実力でとれるのは95点まで。残りの5点、「パーフェクト」には運の助けが必要だ。

そんな100点を常にとり続けるのが天才。努力や運に関わりなく、いつも「パーフェクト」なのである。

50点や60点の人間から見れば、95点も100点も雲の上。しかし、95点にはわかるのである。95点と100点の間には超えがたい壁があることを。

サリエリは宮廷作曲家。音楽の神に才能を与えられた、神に一番近い人間であろう。そんな彼の前に現れたモーツァルト。音楽の神と同等の力を持つ存在だ。

サリエリは当然の事ながら、「神に一番近い男」と「神」の間には超えがたい壁があることに気がつく。今までは、神に与えられた自分の才能に対し感謝してきた敬虔なサリエリは、やがて神を恨むことになる。「どうして私にあのような力を与えてくれないのか」

神を恨み、モーツァルトに嫉妬するサリエリ。悲劇であるのは、サリエリがモーツァルトの最大の理解者であること。「神に一番近い男」が「神」の素晴らしさを最も感じることができるのだ。神と人間の間の超えがたい壁を最も実感できるのは「神に一番近い男」だからだ。彼はモーツァルトを嫌悪しつつ愛するのである。

結局サリエリは「貪欲の罪」を犯したのだろう。人間が与えられる最高の才能を与えられているにもかかわらず、さらに才能を求め、自ら神になろうと欲する。神をも恐れぬ行為。彼は求めすぎたのだ。

日光の東照宮にある陽明門には12本の柱がある。それぞれに彫刻が彫られているのだが、そのなかの1本だけ模様が逆さになっており、「魔除けの逆柱」と呼ばれている。なぜ柱を1本逆にすることが魔除けになるのか。諸説はあるがそこには「完璧なものには魔がさす」という思想があるようだ。人間でありながら、神の御技である「パーフェクト」を望む者には災いが降りかかるのである。

己の才能に満足することなく神の力を欲したサリエリは、その身を滅ぼすこととなる。

モーツァルトはどうであろうか。人間でありながら神の力を手にした男。平凡な器に非凡な力を注ぎ込まれた男。当然長いことその器が持ちこたえることはできない。サリエリと出会わなくても、モーツァルトは成功できなかっただろう。神の力は人間が操るには巨大すぎるのだ。振り回されたあげく、道を誤るのだ。

人間でありながら神の力を求めたサリエリ。人間でありながら神の力を得てしまったモーツァルト。人間と神は程良い距離を置くのがよいのであろうか。

人間は己に与えられているものに満足し、感謝することが必要なのかもしれない。

求めすぎてはいけない。「全て」を求めることは身を滅ぼすことになるのだ。

#050

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コメント

トラックバックのお返しにあがりました。

冒頭、サリエリは自殺を図り、一命を取りとめた後、神父を呼び出し懺悔するシーンから始まります。
でもサリエリは懺悔するつもりなんかさらさらなくて、すべて告白した後、神父は涙し、サリエリはスッキリした様子で「凡人の神、凡人の代弁者」を気取っていました。
私はその姿に嫌悪はありませんが、どこか寒々とした思いを覚えました。

「95点と100点の間の越えがたい壁」に激しく同意です。
エジソンが「99%の努力と1%のひらめき」みたいなことを言っていましたが、凡人や秀才には1%のひらめきが出てこないんですよね。
左脳の分野なら、努力で多少なりとも”天才”に近づくこともできるでしょうが、右脳の分野では努力してもどうにもなりません。
芸術的な才能は「天賦の才」に拠るところが大きいと思います。

とはいえ、「天賦の才」に恵まれた人は何か別のものを犠牲にしていることも多く、ゴッホのように精神を病んだり、モーツァルトのように不遇の生活を余儀なくされたり・・・。

結局、”普通”でいることが一番幸せなのかもしれませんね。
この作品はいろんな分野、様々な時代に普遍性があって秀作だと思います。

投稿: つっきー | 2005/10/12 18:08

つっきーさん、コメントありがとうございます。

>凡人の神

サリエリの持つ才能からすれば、神から離れさえすれば何時でも凡人のトップ、凡人の神になれたと思うのですよ。
彼がモーツァルトとともに滅びるのではなく、モーツァルトと離れる(たとえばザルツブルグへ行くとか)道を選べば、また違った人生が歩めたでしょう。
凡人の神は偽物の神かもしれませんが、本物の神がいないところであれば、周囲の尊敬も得られ、自己満足も感じられるでしょう。
自己満足というと悪いイメージを持たれがちですが、人生においては自己満足って結構大切だと思いませんか?「絶対満足」などというものは、神にならない限り得られないのですから。
凡人の神は、たとえ本物の神を滅ぼすことができたとしても、本物の神にはなれないですしね。

投稿: starless | 2005/10/12 19:41

こんにちは! 失礼ながら、アマデウス、ナルニア国、とふたつTBを送らせていただきました。「アマデウス」は、私も以前まではサリエリの人生を否定的に考えていたのですが、まったく違う解釈が成り立つのではないか、と思ったので今回ブログ記事を書いてみました。よろしかったら遊びに来てください。それでは、また。

投稿: -hiraku- | 2006/03/11 13:37

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うちのダンナさまは長尺の映画は苦手です。 例外は『タイタニック』と『アルマゲドン』くらいでしょうか。 うちのダンナさまは文芸映画も苦手です。 最後に感動で泣ける [続きを読む]

受信: 2005/10/12 17:38

» 映画「アマデウス」(1/2) [make myself just as hard]
映画「アマデウス」(AMADEUS, 1984・米国) サリエリは、モーツァルトの唯一無二の理解者であった。それが可能であったのは、サリエリとモーツァルトは二人で一人だったからだ。サリエリは、モーツァルトを愛していた。自分が生きる生きがいとして、モーツァルトを追い求めた。同時に、この上なく憎悪した。自分に欠けた部分を完備した存在に嫉妬し、彼をおとしめることで自分の生きる価値を保とうとした。これらはみな、同じことだ。愛、憎悪、羨望、嫉妬、憧憬。サリエリにとってモーツァルトだけが世界だった。彼だけ... [続きを読む]

受信: 2006/03/11 13:34

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